かつて担当していたクライアントに書道の達人がいた.日記を書くことを日課としていらっしゃり,ある時私に見せてくださった.驚いた.見事な毛筆で記された達筆と,その奥深い文面に,である.
「七十年あまり生きてきて,これほどの修行の日々が訪れるとは思ってもみなかった.人生には,どこまでも修行が続く……」この文面から,クライアントはリハビリテーションを『修行』と受け止めていたことがわかる.書道家であったクライアントにとって,現役のころは日々が修行であった,という.UUMNディサースリアであったこのクライアントの左顔面神経麻痺に対して,私はCIセラピーを開始して一週間ほど経ていた.ご存知の通り,CIセラピーは心理的負荷をかけ,さらに自主訓練も毎日複数回実施するように課する.
迷った.CIセラピーを継続するべきかどうか.顔面神経麻痺が構音と嚥下に影響を及ぼしていることは明らかであったし,左口角からは絶えず流涎がこぼれていた.審美的問題も少なくないと思われた.他方で,クライアントに与えている心理的負担の大きさに直面し,動揺していた.すべての人がプラス思考でリハビリテーションに取り組んでくださるものではないことは経験から知っていたし,リハビリテーションを通して生きがいのある新しい人生を創るものと考えてはいながらも,クライアントに与える心理的負担を申し訳なく感じていた.長い間訪問指導を継続したり,地域の保健所からの依頼により神経難病患者支援事業の担当をしたり,神経難病患者の友の会にかかわってきただけに,その心理的背景がよく理解できた.私たちリハビリテーショニストは,誤解を恐れずにいえば,常にクライアントに無理をさせてしまっている.別のクライアントがふと,「人生からだに鞭を打って働き続け,ようやくこの歳になって息子に農業の仕事を任せて,少しは楽をしようかと思ったら,パーキンソン病と診断されてしまって……」とこぼしたことばも脳裏をよぎった.「この患者はまだ障害の受容ができていない」などということばを聞くと,腹立たしく感じることがある.障害の受容などそう簡単にできるものではないからである.だから,自殺するクライアントもいるのであろう.
迷った末に,クライアントに,当院のこれまでの臨床データではCIセラピーを実施するとかなりの高い確率で流涎が止まること,8週間以上実施した症例で高い割合で大幅な改善が認められていることなどを伝えた.と同時に,毎日単純な訓練課題を高頻度で行うことになること,自主訓練は毎日複数回実施しないと得られる改善効果が低くなることも率直に伝えた.
こうして,CIセラピーを継続するか否かをクライアントに選択していただいた.その結果,クライアントはベッドサイドに置いてあったCIセラピー用に貸し出してあった鏡を取り,自身の顔を静かに眺め,深くあたまを下げておっしゃった,「よろしくお願いします」
こうして,CIセラピーを継続することとなった.翌週にはひっきりなしに溢れ続けていた流涎が止んだ.訓練開始後8週間後は顔面の運動時の左右差はかなり消失し,10週間後にはほぼ本人も満足する状態に達した.
クライアントの表情が別人のように変化し,病棟でも話題となった.単にCIセラピーにより顔面の運動機能が改善したからではない.一時失われていた生気を取り戻したのである.リハビリテーションを通して,クライアントの心の中で変化が生じているのを私も感じた.作業療法室で,凛として筆を握る姿は品格と生きる意欲を漂わせていた.クライアントの生活の質が高まったことに私たちセラピストは喜びを感じた.
「人生は生きている限り修行が続くものだ.修行が続くから死ぬまで成長が続くのだろう」退院時,クライアントはそう記された日記を私に見せてくださり,おっしゃった.「ありがとうございます」その高邁なことばは,深く私の胸に突き刺さった.と同時に,恥じた.自分は毎日どれほどの「修行」をしているのだろうか,と.