美術館は,一人ででかけるものである.つかれが溜まったとき,私にはフラリと美術館に出かける習癖がある.学会や講演で地方にでかけたさいに立ち寄るのも好きだ.そして,ゆっくりとひとつびとつの作品を目にしながら,気まぐれに時を過ごす.

私が現在住んでいる新潟市内に県立万代島美術観がある.日本海を望む信濃川河口に位置する超高層ビルの「万代島ビル」の中にあり,ゆったりと過ごすには,絶好のロケーションである.先般,フラリとこの美術館にでかけたさいに,ナビ派の画家であるモーリス・ドニの作品に出会った.ドニの遠近法を無視した平面的で甘美な作品に,若いころに魅せられたものだった.

ドニは1892年にマルト・ムーリエと結婚し,そのころに「アムール」を制作した.12枚のリトグラフに,それぞれ象徴的な題名がつけられている.アムール11には,「人生は貴重な慎み深いものとなる」という題名が付せられている.30年ほど前,銀座のある書店で私はこの作品に長い間みとれていたのを記憶している.奥深くやさしい,その神秘的な美に,である.

ドニは1891年9月30日に,日記にこう記している.「恋をしていると,気持ちが晴々とする.ひとにも優しく接することができるし,清らかにつきあえる.人生が大切なものに思われ,穏やかになる.沈む夕陽にも,昔のような安らぎを感じる」.ドニの作品アムールには,こうした彼の思いが潤沢に刻まれている.

30年ほど前にはじめてドニの作品に出会ったころ,私は人生の意義や価値を求めて思索にふけっていたた.毎日,沢山の哲学書と心理学書を読み続けた.大学を休学してまで,読み続けた.大学教授とも平然と論争する生意気盛りの青年であった.30年ほど前の青年の私の目に焼き付いたドニのアムールに対する印象が不思議にも中年となった今と大きく変わらないことに万代島美術館で驚きながら,私は万代島ビルの展望台から新潟市街地を慌ただしく行き来する人々,日本海から出入りする船,遠くにうっすらと写る佐渡島を眺めていた.

まだ,人生の経験などほとんどない青年の私の心の琴線にふれたものは,アムールであったのであろう.そして,紆余曲折の30年ほどの人生を旅して,今中年になり,最も貴重なものがアムールであることを経験から学んだのでいるのである.

スピリチュアルブームといわれている今日であるが,実はこうしたブームはいつの時代にもにもあるものである.そして,怪しげなカウンセラーや占い師,霊能者のような人物が注目され,皮相浅薄な人々はそれに夢中になる.霊感商法も,いつまでも後を絶えない. しかし,若き日に,人生において本質的に最も大切なものをしっかりと感じとめる感性を磨いておく人は幸いであろう.低俗なブームに流されることなく,人生は貴重な慎み深く愛に満ちたものとなるであろう..

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