自由会話の技法というと,礼節のあることば使いといった側面がとりあげられがちであるように思う.これが重要であることはいうまでもないが,ここではより技法的な面から,自由会話について考えてみたい.

まず第一に大切なことは,話題を拾う能力を身に着けることである.学生の実習の指導を担当していると,しばしばクライアントと交わす会話のテーマについて予め計画的に考えてくる学生がいる.そうした学生は,最近の社会的事件やスポーツを話題としてとりあげようとする傾向がある.中には,会話の内容について「〇〇さん,こんにちわ.〇〇〇について,どのよう思いますか?」と一つ一つの文句を紙に書いてきたり,さらにそのようにして話す練習を事前に行う学生さえいる.これでは,さながら学芸会か三文芝居のような臨床となる.

クライアントとの関係がまだ未熟な段階である場合,予め臨床家の方から話題を設定してしまうのは,望ましくない.なぜなら,話題を臨床家の側から設定してしまうと,その時点で,既にコミュニケーションの材料がクライアントではなく,臨床家にとって都合の良いものとなってしまっているからである.クライアントはその話題に合わせて話してくれるであろうが,話題を深めるには,そして話題を深めるには,適切な状態にあるとはいえない.

自由会話をとおしてクライアントとの親密感を深めようとするのであれば,話題の目の高さをクライアントに合わせなくてはならない.つまり,クライアントにとってより親密な話題をとりあげるべきである.とすると,話題とは予め設定するものではなく,クライアントとの平凡なやりとりの中から「拾う」ものであると理解すべきであろう.例えば,クライアントに対して職業についてご質問をしたところ,農業という返答があったとする.すると,農業という職に敬意を表しながら,農業を話題として取り上げて展開してゆけば,クライアントにとって親密なコミュニケーションとなるであろう.

さて,さらに大切なことは,「拾った話題を広げる能力」である.いまクライアントとのやりとりから話題をとりあげることの大切さについ述べた.しかし,どのていど話題を弾ませることができるかどうかは,臨床家の話題についての展開能力と知識によるのである.

たとえば,最後にクラスアントが卒業なさった学校が国民学校であったとし,その国民学校についてクライアントが話をしてくださった,とする.しかし,臨床家が国民学校についての知識が乏しいと,話題は一向に膨らまないであろう.「そーなんですかー」と,話は絶えてしまうであろう.これでクライアントとの距離は決定的に開いてしまう.「やっぱり,わかってくれないのか」と,クライアントに失望感を抱かせかねない.対して,ある程度の知識があると,国民学校時代の苦労について,「共感」をもって「傾聴」することができるであろう.

さて,ここまで「話題を拾って広げる能力」が大切であると述べてきたが,そのためにはどのようにすればよいのであろうか.まず,現在の70~90歳代の老人の方々がこれまでに生活してこられた時代背景についてひととおりの教養を身に着けておくことである.決して難しく考える必要はない.分厚い本を読まなくても良い.そうしたビデオはレンタルショップでしばしばみかけるものであるし,図書館の子供向けのコーナーに行くと,「写真でみる過去100年の日本」というような本が沢山ある.こうした本の多くは写真が中心であると,ページ数も少ない.楽しみながら,戦前,戦中,戦後の日本人の暮らしぶりについて知ることができるものである.あるいは,各自にとって大切な祖父や祖母と,ゆっくりと昔話を聞くことも良い.

誰でも,自分のことをより良く理解してくれる人に対しては親密感を抱くものである.「まず人ありき」と私は口癖のように学生たちにいう.まず,クライアントをより良く理解することが,すべての始まりである.この時代にあってさえも,「人」よりも「障害」をみることを優先するのであれば,話は全く別であるが.

 

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