国内では,ディサースリアの定義ならびに翻訳用語について混乱が生じている.その背景には,発話と構音を混同する誤解があったことが指摘されている.そこでまず,この点について確認しておく必要がある.
発話が生成されるさいには,発話の動力源である呼気が呼吸器系から送りだされ(呼吸),喉頭で呼気流のエネルギーが音響エネルギーに変換される(発声).こうした呼吸と発声を基盤として,構音とプロソディーがつくられる.
構音とは母音や子音といった音声言語音を生成することと定義され,発話における音韻的情報を提供するものである.音韻的情報は,音韻のような音声のある時間区分内での特徴であることから分節的特徴とも呼ばれる.
これに対して,ストレス,イントネーション,リズムのことをプロソディー特徴という.プロソディー特徴は音韻区分を超えて,音韻が連鎖した単語,句,文などの区分にまたがる特徴であることから,超分節的特徴とも呼ばれる.プロソディーは生理学的にはピッチ,声の大きさ,構音時間および休止時間の変化によって生じ,発声発語器官を構成する各器官と密接に関連しあっている.すなわち,ピッチの変化は主に喉頭での声帯長の調節により生じるし,声の大きさは喉頭も関与しているが主に呼吸器系における声門下圧の調節に依存している.構音時間と休止時間は呼吸器系と構音器官の筋活動によって調節される.治療では,逆にプロソディーの側面を操作することによって,他の側面に働きかけることが頻繁に行なわれる.発話速度を低下させて呼吸,発声,構音の運動を正確化させるというのはその典型例である.
発話とは,このような分節的情報と超分節的情報を併せ持ったもののことをいう.口頭コミュニケーションが行なわれるさいに,発話は分節的な単音から構成されるモーラの連鎖としてとらえられる一方で,分節を超えたレベルでの様々な特徴も音声言語的コミュニケーション上重要な情報として聴覚的に知覚される.発話においてプロソディーを「礼服」のごとく解釈することについては,警告が発せられている.
以上から,発話と構音とは決して同義ではなく,同義として扱うのは誤用であることがわかるであろう.
さて,ディサースリアは古くは構音器官のレベルで生じる構音(articulation)の障害と定義されていた.しかし,ディサースリアが構音の障害のみに留まるものではないという理解は,1950年のPeacherの指摘に始まり,Darleyらの提出した定義によって完結した.Darleyらはディサースリアを構音の障害から発話の障害へと拡大して解釈し,構音の側面を過剰に強調することに対して繰り返して警告を発した.この見解は音声言語病理学の領域では国際的に広く支持を集め,ディサースリアとは単一の構音の障害ではなく,呼吸,発声,共鳴・構音,プロソディーといった一連の発話の側面の障害の総称として理解する点で見解の一致がみられるようになった.ここに至り,構音はディサースリアに含まれる発話の中の重要であるが一つの側面として理解されるようになり,ディサースリアの定義は原義のdys(「不全」を表す)+arthria(「構音」を表す)から既に離れたといえる.治療においても,構音のレベルのみで障害をとららえることは戒められてきた.
こうした半世紀以上に及ぶ国際的動向に照らして検討すると,今日,ディサースリアを構音障害と呼ぶのは甚だ時代錯誤であることがわかる.また,運動性発話障害(Motor Speech Disorders)とはDarleyらが作った造語であるが,そこには「構音障害ではなく」という意が含められている.構音障害という用語でディサースリアを扱うにあたり発話と同義で構音という語を用いるという見解も国内ではみられているが,これは前述のように構音という語の誤用以外の何者でもない.
こうして考えると,従来からdysarthriaの訳語として用いられてきた「運動障害性構音障害」や「運動性構音障害」という用語が不適切であることは明らかであるが,新しい用語を提唱することは再び混乱を招きかねない.そこで,私たちは多くの医学用語がそうであるようにdysarthriaを仮名で呼ぶことを提唱してきた.仮名の欠点として,最初はどうしても違和感を覚えるものであるが,これは単に親近性の問題である.事実,講義で最初からこの用語で学んできた学生たちは,「これが一番自然に感じます」と口をそろえていう.
文 献
西尾正輝:Motor speech disordersとDysarthriaをめぐる定義および翻訳用語上の混乱と誤りについて.総合リハ,22:861-865,1994.